大人気漫画『BLEACH』
そのコミックスの一番冒頭には、作者『久保帯人』先生の書いた短いポエムがあります。
マンガの中のストーリーやキャラクター達も非常に『オサレ』な事で有名なBLEACHですが、そのポエムもとてもオサレだということで有名です。
「深イイ事が書いてあるなあ」というだけでなく、たった2行ほどだったり、どういう意味やねん!というものまで様々です。
オサレに見えるだけのただのちょっとしたポエムなのか、はたまた劇的に深いメッセージ性のあるポエムになっているのか。
そんなオサレポエムを改めて見つめなおし、僕なりに考察してみたいなと思います。
完全な個人的見解ですが、ご覧いただけると幸いです。
オサレポエム~25巻より引用~
我々は皆
生まれながらにして死んでいる
終焉は常に
始まりの前からそこにあるのだ
生きることが
何かを知り続けることならば
我々が最後に知るものこそが終焉であり
終焉をついに見出し
完全に知ることこそが
即ち死なのだ
我々は何かを知ろうとしてはならない
死を超越できぬ者は
何ものも知ろうとしてはならないのだ
考察 ~悲観的か楽観的か~
まず、ポエム冒頭。
我々は皆 生まれながらにして死んでいる
北斗の拳のケンシロウが、お前はもう死んでいるといっているかのようなフレーズ。
どうやら僕も、貴方もこのポエムによれば既に死んでいるようです。
そして、その後も
『死』『終焉』『最後』
という、ネガティブなワードが各所に散りばめられています。
一見したところ、悲観的なポエムであると捉える事ができるでしょう。
悲観的なポエムとしての見方
終焉を知った時、死を迎える。
皆、終焉をいずれ迎えるのであれば、何も知る必要もない。世界を知ったところで虚しいだけ、死は免れることはできない。
要は、みんな必ず死んじゃうんだから、知識なんていらないね
こういったポエム。
もっと悲観的に捉えると、生きる事=知る事=終焉を迎える事=死
生まれながらにして死んでいるという1文の後ろに、
死ぬ為に生まれさせられる
という意味を含んでいるようにも見える気がします。
楽観的なポエムとしての見方
最後の一文。
死を超越できぬ者は 何ものも知ろうとしてはならないのだ
この部分を逆の視点で見てみると少し面白いです。
当たり前だが、我々は必ず死を迎えます。
しかしその死を超越できる者がいたとしたら、その者は何ものをも知っても良い、知る意味があり、知る価値がある。
という事になるのです。
残念な事に人類で、明らかに死を超越して200年生きていますなんて人は実在しません。
しかし、例えば有名な科学者。
ガリレオやニュートンは我々の頭の中で生きています。
「心の中で死んだあの人は生きている」
という感じの言葉はよく使われます。
漫画『ONE PIECE』内のDr.ヒルルクというキャラクターの、
「人はいつ死ぬと思う?人に忘れられた時さ」という言葉も有名です。
つまり、例として科学者の名前を出しましたが、いわゆる歴史上の偉人達は、死を超越できた者だということになるのです。
この世の知識を知る。
ありとあらゆるもの、または一定の分野において、知り尽くす。
知識を付け尽くすことができれば、誰もが直面するはずだった死と終焉を超越できる。
という希望的で楽観的なポエムだとみることも不可能ではないのではないでしょうか。
まとめ
如何にも壮大な論文でも提唱するが如く、つらつら書いてみたわけですが、もちろんこれは僕の個人的な想像にすぎません。
しかし、コミック本の最初にかいてあるこの文章を、『オサレポエム』としてなんとなく目をとおしていただけの頃より、
「本当にこのポエムは凄いことが書いてあるのでは!?」と思うようになりました。
事実こういった意味深な凄いポエムを本の冒頭に入れ込んでくる久保帯人先生は、そうとうの文才家です。
25巻といえば
ところで25巻といえば、破面編。平子達『仮面の軍勢』に虚化のすべを叩き込んでもらい、自分の内面世界で、白い虚の自分と黒崎一護が闘う話。
表紙にもなっている白い一護がカッコイイんですよねぇ!
今回この記事を書きながらチラチラと久々に読んでみたらやっぱり面白いですね!
そして、堅苦しい内容でしたが、オサレポエムの考察をしてみて僕自身楽しかったです。
機会があれば、他も考えてみたいです。
ご覧いただきありがとうございました。